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トヨタ自動車名誉会長で、経団連会長を務めた豊田章一郎(とよだ・しょういちろう)氏が2月14日、心不全のため死去した。97歳だった。葬儀・告別式は近親者で執り行う。喪主は長男で、トヨタ社長の豊田章男氏。豊田章一郎氏はトヨタ自動車創業者の豊田佐吉氏の孫。
名古屋大工学部を卒業し、東北大学の大学院を修了。昭和27年にトヨタ自動車工業(当時)に入社。56年にトヨタ自販の社長に就任し、57年トヨタ自工との「工販合併」を受けて、初代トヨタ自動車社長に就任した。機械工学を専攻した技術者で、トヨタの品質管理責任者としてデミング賞を受賞するなどの功績を残したほか、平成19年には自動車産業に功績を残した人物を顕彰する米国自動車殿堂に、日本人では7人目の殿堂入りを果たした。
グループの求心力
豊田章一郎氏は、トヨタ自動車グループの求心力の象徴だ。本格的な海外展開や、トヨタを世界ナンバーワンの自動車メーカーに押し上げるための土台づくりを担い、経団連会長としても卓越した指導力を発揮した。
昭和57年、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併によって誕生したトヨタ自動車の初代代表取締役社長に就任。59年には米ゼネラル・モーターズ(GM)との合弁で、米国での現地生産を進めた。トヨタの競争力の源泉ともなっている「かんばん方式」を海外に広げる世界戦略を展開することや、日米自動車摩擦に対応するために、対外・対内の調整の必要性を痛感していたとされ、財界活動にも力を入れるようになった。
それまでトヨタは愛知県にこもる「三河モンロー主義」ともいわれ、中京圏以外の財界活動には興味を示してこなかったが、豊田氏がトヨタ出身者としては、初めて経団連会長に就任した。
経団連会長としては構造改革の必要性を強調し、規制改革の重要性を繰り返し訴えた。平成8年には長期ビジョン「魅力ある日本-創造への責任」を発表。「若者が未来に希望を持ち、世界の人々が日本に住んでみたい、日本でビジネスをしてみたい、日本で学びたい」と考えるような日本に改革したいという豊田氏の想いが盛り込まれた。
21年に長男、章男氏がトヨタ社長に就任して以降はその動向にも思いを寄せていた。かつてトヨタを担当していた記者は、ある会合で豊田氏とあいさつしたが、その際も、「最近の章男の評判はどうなんだ」と聞かれ、気にかけていることを実感したという。
16年のアテネ五輪では、柔道の会場で一般の観客席で、トヨタの社員であった谷亮子選手(当時)の応援に駆けつけた。大きな声で谷選手を応援し、金メダル獲得した際には、飛び上がって喜んでいた姿が懐かしい。